Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

大学院で研究することになりました。

四月から京都大学総合人間学部人間環境学研究科の院生として宗教学、宗教社会学の研究をすることとなりました。京都にお住まいのみなさん、これからもどうぞ宜しくお願いします。直接会った際、報告しようと考えていたのですが、報告した数人から回りまわってしまい、それが少し気持ち悪かったので、webで報告することにしました。

 なぜ大学院に行くことにしたのかに関してですが、国会図書館の試験に落ち、また、就活をする気が起きなかったが、来年何もしないのもどうかと思っただとか、大学院でしっかりと勉強したいと思っただとか、説明しようと思えば出来なくもないのですが、結局のところ、「してしまったこと」に対する理由は徹頭徹尾フィクションであり、そういう説明をすることが非常に苦手なので、とりあえず、「学問が私を呼んだから」ということにしておきます。

私が所属することとなった総合人間学部とは、「人間的なもの」とは何か、という問と向きあうことが使命である、と考えています。自由が叫ばれ、義務が衰退する中で、社会は弛緩し、私たちは、何をすることができ、何をすべきなのか、何をしてはならないのか、が分からなくなっているのが現代ではないでしょうか。「人間的なもの」とは何かという問と向きあうこと、人間を疑うこと、大学院二年間はそれに尽きるのではないかと考えています。 

こんなことを書くと、そんな勉強、お前に、ひいては社会に何の役に立つのか、と言われてしまいそうです。私は、これから自分がすること、今までしてきたことがどんな役に立つのか、という視点から説明することができません、説明する言葉を持っていません。すべきなのかも分かりません。

ただ、食べていくには不向きな地点に立ったという自覚だけはあります。倫理なき経済は犯罪だが、経済なき倫理は寝言に過ぎない、と二宮尊徳は言いました。武田泰淳は「士魂商才」という小説を書いています。せめて自分が食う分は自分で稼ぎたい、そのための技術を身につけたい、そうしないと社会と真摯に向き合えない。そう感じています。友人と出版社を作りました。(法人化はしていませんが)また、プログラミングの勉強も始めました。

では、これからも宜しくお願いします。 

 

共和主義と科学について

ジニ係数という分析概念をご存知だろうか。これは、所得分配の不平等さを測定する指標だ。係数の範囲は〇〜一であり、〇に近いほど格差が少ない。教科書等では一般に〇に近い国が評価される。この分析概念はぶっちゃけるとキモチワルイ。なぜか。ジニ係数を計測するために、一人一人の収入をケースとして「平等」に扱っている、つまり、測定する以前に既に平等であるからだ。

社会学や経済学の根底にはこうした「平等」思想が流れている。ニーチェはそこにキリスト教徒のルサンチマンを嗅ぎとり徹底的な批判を加えた。ニーチェまで行かなくとも、なぜ平等を志向せねばならないのか、と考えたことのある文系学徒は少なくないのではないだろうか。私はそのうちの一人である。今回は学問に根を下ろす、平等思想と神の不在について論じてみる。

 ところでその時点(人間が造物主の手によって作られた時点)で人間は一体何者であったのか。人間だったのである。人間であることがその高貴なそして唯一の肩書きだったのでこれ以上に高貴な肩書きは人間に与えることができはしない。

これはフランス革命を擁護したトマス・ペイン『人間の権利』の一節である。ここには人間は人間であるがゆえに平等である、という思想が高らかに謳いあげられている。モダンあるいはポストモダンに生きる私たちは、この思想を当然のものとして受け取るかもしれない。しかし、当時、この思想は非常にラディカルであった。

それ以前の世界は、超越的な神のもとに、現在「人間」と呼ばれるところの何かがそれぞれ異質なものとして存在した。しかし、トマス・ペインを代表とする共和主義者は、超越的な神のもとに、斉一的に把握しうる「人間」を定位した。把握可能な「人間」の誕生は、必然的に、彼等「人間」が形成する把握可能な「社会」の誕生を伴う。そしてその把握可能な「社会」においては「超越性」=「神」は失われる。ここでいうラディカルとはそういうことだ。

 社会学の創始者の一人、デュルケムが『社会学的方法の規準』にて、社会を個人に外在する「物」として客観的に扱うべきである、と宣言したことは以上の文脈で理解する必要がある。つまり、デュルケムにおいては、社会は「物」として存在するのであり、そこにおいて超越的な神は存在しない。そして、「社会」を対象とした独自の科学を打ち立てることは、カトリシズムの世界観に取って代わりうる共和制の世界観を打ち立てることを意味する。社会学と共和主義、平等主義とは切っても切れない関係にある。(なお、『宗教生活の原初形態』でデュルケムは、宗教とは社会の象徴である、という認識も提示する。)

以前論じたように、超越者なしでは私たちは「私は異常者ではない」ということを確定することができない。そして、その代打、擬似的な超越性として登場するのが、民主主義、あるいは科学、社会である。つまりみんなが「あなたは異常者ではない」と言っているから、「私は異常者ではない」ということにとりあえずしておきましょう、と。社会科学であれ、自然科学であれ、近代に成立した学問には、その学知を正しいと確定する神がいない。よって、普遍的に成立する法則を想定することができない。それではあんまりなので学問共同体の構成員の多くが、「この仮説は正しい」と認めた場合、その仮説は「法則」という名を冠することになっている。あくまで暫定的に。

では、超越性と科学は両立不可能なのか。長くなりすぎたので続きは次回。

私はなぜ就活に失敗したのかについて

私はなぜ就活に失敗したのか、冷静に振り返ってみる。このブログにたどり着いた稀有な人は、こういう人間が就活に失敗するのか、ふむふむ、と参考にしていただけたら幸いである。

私は、多くの就活生と同様、夏休み前、インターンシップに参加するためのエントリーシートを書き、夏休みに二社インターンシップに参加した。そして十二月頃に国会図書館を目指し始め、三月ころ、五社ほど一般企業を受けたが落ち、国会図書館の試験も六月に二次試験で落ちた。それ以降、就活という就活はしていない。

私が一番印象に残っているのは、とあるゲーム会社の説明会に行った際、二時間弱の説明会で社員さんが「成長」という言葉を五十回以上も口にしたことだ。成長するのはそこで働く社員であり、会社であり、サービスはそのための手段に過ぎない。成長こそが目的である、そういった内容だった。僕にはこの説明会が耐え難かった。どうしようもなく。

 私はただお金を稼ぐために働きたいのであり、例えば、IT会社であればユーザーさんが喜んでくれるサービスを作る、あるいは、それに貢献できる仕事がしたいのである。愚直に、真摯に働きたいのである。成長することなんて徹頭徹尾どうでもいい。

前で挙げた例は極端だが、「うちにこれば成長できるよ!」というメッセージ、それに類するメッセージを打ち出している企業は多い。もちろん、そうでない企業もたくさんあるだろうが、私の中で「就活=根本的に間違った何か」という認識が夏休みには出来上がり、就活という言葉を聞くだけで嫌悪感を抱くに至った。(だから国会図書館を目指したというのもある。)それは今でも治っていない。

ところで、私の中で嫌悪感が根強いのには、アルバイト経験が影響している。私はこのはてなブログを提供している株式会社はてなのサポート部でアルバイトをしていた。そこから移り、現在はソーシャルゲームを作っている会社でサポート業務を担当している。この会社にはサポート専属の社員さんがおらず、サポート業務全般の主管、担当が曖昧になっている。そのため、組織を上手くまわすために、サポート部がどうあるべきかを模索している。

委託会社やエンジニア、サポート部の同僚と話し合い、制度の導入、運用を試していく中で、失敗し反省したことも多々ある。しかし、これはあくまで私の主観だが、給料分の働きはしていると思っている。私は決して成長など掲げていないし、真摯に働いているだけだ。例えば私はruby(プログラミング言語)の勉強をしているが、成長したいからではなく、私も何かサービスを作ってみたいであったり、社員の負担を減らすために自分で不具合を発見し、修正できるようになりたい、といったモチベーションでしかない。

長々と書いたが、要約すると私はただ真摯に働きたいだけだ、そして、真摯に働いてみて、やはりこの考え方は間違ってなかったと思った、だが、就活ではよく分からない価値観を私に押し付けてくる、それが私には耐えられない。そういうことだ。

最後に。今はイノベーションの時代だ、だから真摯な人間なんて要らないんだ、クリエイティブな人間を会社は求めてるんだよ!と言う人がいるだろう。が、「うちにこれば成長できるよ!」というメッセージに好意的な人間や、好意的には受け止めないが企業がそう謳うのであればそれに適応しますよという就活生がなぜ、成長を謳う企業に嫌悪感を抱く人間よりクリエイティブであると言えるのか、私にはよく分からない。

物を書くという行為には、過去の私と今の私を切り離し、かつての私、その絶望的な思考を外からシゲシゲと眺め回し、乗り越えさせるという効用があるらしい。一周回って私は就活をする気になるかもしれないが、それでも私は、それを決して「成長」だとは呼びたくない。「変化」と呼ぶ。

自己紹介と決定不可能性について

昨年の十月頃、ナンパを生業とする友人が自己紹介で何を話すべきか分からなくなったのでそのことについて話をしたい、と言うので、所属集団で人を忖度すること、されることが大嫌いな友人等と軽い座談会をした。

 先日、そのナンパを生業とする友人と私と初めて会ったに等しい二人とでカフェに行き、自己紹介をした。彼は名前と学部を名乗るだけで切り上げた。そのとき彼から、自己紹介なんかしなくとも話すうちに相手のことを理解できる、という自信を感じ、一皮むけたな、と感じた。

が、私は昨年の十月から一歩も出れていない。

私はいまでもtwitterのvioに自分の所属集団、好きなものをスラッシュで書き連ね、自分を表現している人に違和感を抱いている。それはお前ではないだろ!!!、と。だが、そんな彼等の気持ちがよく分かるし、自己紹介になれば所属集団をペラペラとまくし立てる。

私は〇〇である(〇〇には例えば、ニンゲン、宇宙人、京都大学の学生などが入る。)、という自己主張は原理的に確定不可能だ。では、友人が「あなたは〇〇です。」と言えば確定するだろうか。確定しない。なぜなら第三者が「あなたは〇〇ではない。」という可能性が残されているからだ。では、二人がそういえば確定するだろうか。確定しない。

どれだけ人数が増えても、私たちがいる次元よりも一つ上の次元で裁定する存在(=神)を想定しないかぎり原理的に確定しない。では、もし神がいなかったとしたらどうだろうか。私たちは決定不可能という名の穴に常に怯え続けねばならない。私は何者であるかという問、つまり自己意識には、そういった怯えが常に付き纏う。

 では、神なしで「私は異常者ではない」ことを証明するにはどうしたらよいだろうか。同類を増やせばよいのだ。数十年前、BLは隠すべき趣味であったが、現在は広く社会に受け入れられている。それは、BL好きの人数がティッピング・ポイントをこえたからだ。いまや「BL好きは異常者ではない」と認定された。

僕たちは社会的に確立したカテゴリーをスラッシュで並べることで満足している。私を含め私の周りにはそれが嫌いなニンゲンが多い。どれだけそれを嫌おうが、自分が何者なのか分からない不確定状態を回避するために私たちは「私は〇〇です。」と宣言する。そして宣言したがゆえに、不可避的に不確定状態に落ち込んでいく。それでも私は三月までは、京都大学の学生であることにすがらざるを得ない。