Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

能産性への反抗

六月十日は時の記念日であった。時の記念日とは千九百二十年に制定された記念日であり、日本国民に「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と呼びかけ、時間の大切さを尊重する意識を広めるために設けられた、そうだ。(wikipediaより)

我々は時の記念日が象徴的に示すように、徹頭徹尾「能産性」に絡み取られている。

大学構内の食堂のレシートには、選んだ小皿から推測したカロリー、栄養バランスの偏り等がご丁寧に記載してある。われわれはそんなこと一切望んでいないにもかかわらず。健康増進という名のもとに、我々の生は管理され、能産性を高めることが目指される。

 研究室においては、他の研究グループよりも早く結果を出すため、一本でも多く論文を書くため、寝る間を惜しんで、家族の団欒を惜しんで、食事の時間を惜しんで、研究をさせられる。企業においては、お前の成長のためという謎な説得術、俺の成長のためという自己暗示、はたまた、失業の恐怖のため、一日数十時間、働かされる。

 能産性に回収できない人間は、神経症患者、鬱病患者等と名付けられ、異常者扱いを受ける。そして、医療の消費者として、薬品会社が生み出した愚にもつかない薬を毎日、毎日お金を払って飲まされる。

もう一度言うが、我々はこのように徹頭徹尾「能産性」に絡み取られている。

フロイトやラカン、それからフーコーの思想の力強さは、こういった「能産性」によって自己の同一性を確保しようとする現代社会において、それに回収されない開かれた人間像を確立しようとしたところにある、と私は思う。

はじめに腕時計を外し、ジーンズを脱ぎ、続いて、浴衣を着、最後に下駄を履こう。我々は如何に、意識せずせかせかとした生活を日々送らされているかに気付くであろう。

 

人間の進歩について

「かつてヨーロッパにおいてペストが流行したことが何度かある。そのたびにそれはユダヤ人が広めたといった説明がなされた。現在はペスト菌をもったネズミが存在することが知られている。そして、ノミがそのネズミの血を吸った際、一緒にペスト菌も吸い込み、かつ、そのノミが人間の血を吸い、人間の体内にペスト菌が侵入した場合、発症することが分かっている。これは科学の進歩であり、人間の進歩である」といった話を聞いた。

 それを進歩と呼んでしまう人間のナイーブさに萎えた。

確かに科学的な説明原理は発展している。だが、ペストの流行という結果に対して、その原因を措定するという説明原理は何ら変わっていない。かつて、ペストに対する恐怖が日本に蔓延したとき、東京において、ネズミを殺して持って行ったら一匹につき◯円支払うと公共団体が通告したがゆえに、何百万匹というネズミが殺されたらしい。ペストの原因をユダヤ人とし、ユダヤ人を殺したかつてのヨーロッパ人とどこに差異があるのか。かつてのヨーロッパの説明原理を非合理的、現在の説明原理を合理的であるという「正しさ」はどこにあるのか?私がナイーブであると感じたのはそこである。

我々は因果関係によって事態を理解した気になる。しかし、因果関係は複雑な現象を分かりやすく説明するためのものに過ぎず、「事実」とは異なる。そして、「原因」として措定された人、物はネズミやユダヤ人のように迫害を受ける。職場の空気が悪いのは上司がしっかりしていないからだ。私がこんななのは親のせいだ等々。我々はそういったかたちで、迫害者を創る。

そんな説明原理に縋っているかぎり人間は絶対に進歩しない

「偶有性」-「必然性」

偶有性(他でもありえたこと)と必然性(それ以外にはありえないこと)を両極に定位すると、蓋然性(ありそうである)は概ねその中間に存する。この「偶有性」-「必然性」という二つの概念をもってして現実を照射すると、複雑な現象も見え易くなるように思われる。

 私は西洋哲学読書会を主催しており、先月プラトンの『饗宴』を読んだ。『饗宴』とは軽くお酒を飲み、その席で各人が「愛」について演説をした模様をプラトンが文章にしたものだ。我々はその読書会の後、饗宴第二部という名目でお酒を飲みに行った。その席で彼等に真似、「友とはなにか」という小っ恥ずかしいことを議論した。(茶化し、茶化されながら議論は進展した点で、彼等とは大違いだが)

 私は、友とは、彼あるいは彼女と今この場を共有していることが、偶有的な事柄、つまり彼、彼女以外でもありえたこととして映るわけでなく、さりとて、必然的な事柄、つまり彼、彼女以外考えられないこととして映るわけでない。友とは、今この場を共有していることが、蓋然的な事柄として映る存在であるように思う。

必然性は運命と言い換えることもできる。運命とは主体的な選択でなく、常に既に決定された事柄を指す。偶有性を肯定的に捉えれば、一期一会の境地であり、これまた運命と同義である。必然的でも、偶有的でもないということは逆に言えば、主体的に彼、彼女を選択したことを含意する。

「偶有性」-「必然性」という枠組みは、両親との関係にも応用できる。この父親とこの母親から生まれてきたという事実は、(特殊な事情がないかぎり)常にすでに決定された事項、つまり必然的な事項である。

だが、反抗期だったころの自分を思い出してもらいたい。反抗期においては、「私はなぜこんな両親のもとから生まれたのか」という絶望的な問と向きあうことになる。友人の家に遊びに行き、親切で幸せそうな家庭を垣間見ることで、「私はこの家の子どもでもあり得たのではないか」と想像する。その際、今まで必然的なものであった家は、他でもあり得たもの、つまり偶有性のもとに晒される。

では、私たちはこの絶望的な問から如何にして抜けだしたのか。私の場合、母親も父親も一人の人間に過ぎないと、あるとき突然理解し、気づいたら反抗期を抜けだしていた。これはある種の諦め、諦観だ。こんなどうしようもない両親の元から生まれてきた、どうしようもない自分を引き受けるしかない、そう思えたとき、私は反抗期を抜けることができた。(私は依然として反抗期を乗り越えていないのではないかと思うときが多々あるが)

以上から、両親との関係は三段階存在するように思われる。一段階目は、母親に包摂され、父親の権威のもとに従属している段階。この段階においては、両親が他でもありえたのではないかと想像することすらない。二段階目は、反抗期。この段階においては、両親が他でもありえたのではないか、という想像と、「他ではありえない」という事実の板挟み状態に悪戦苦闘する。三段階目は、反抗期後。この段階においては、父親の権威から抜け出し、父親と母親と対等な位置に属する。

以上のように、 この「偶有性」-「必然性」という二つの概念をもってして現実を照射すると、さまざまな諸関係を評価することができ便利だ。

生臭ビジネス

「生臭坊主。」

先週執り行なわれた祖父、祖母の法事に現れた坊主を形容するのにこれ程適切な言葉はない。坊主でありながら老人ホームの経営をする彼は、高級車から降り、家にあがってすぐ、「この座布団では腰が痛い」と文句をつけ、扇子を放り投げお経を読み始めた。昼食の席では、お酒を煽り、宗教者とは思えない発言をし、帰っていった。坊主なんてそんなもんだと諦めているため、失望も、怒りも、殺意も湧いてはこなかったが、しこりが微かに残った。

 私にとって、(そしておそらく多くの若者にとって)坊主は存在するに値せぬ存在者である。なぜなら、彼等は葬式や法事のときだけ、意味のわからぬお経を唱え、愚にもつかぬ説法を垂れ、お金を受け取りタダ飯に預かり颯爽と帰っていくだけ、本当にそれだけの存在者として我々の目に映るからだ。

 もし仮に本当にそれだけの存在であるならば、とうの昔に坊主は滅びていたはずである。だが、坊主は現に(「生臭」という枕詞とともに)存在する。なぜだろうか。それは坊主が、(正確に言えば、仏教が)死後の世界に対して「意味付け」を行うことで、「死への恐怖」を軽減する役割を果たしているからではないか。「死」ほど無-意味を晒すものはなく、「死」ほど意味を求めるものはない。

 ところで、人間の恐怖を利用したビジネスとして「受験」と「就活」が挙げられる。そして、この二つは驚くほど宗教ビジネスに似ている。これら三つの共通点は、それらがある「移動」を伴う点だ。受験においては、中学校から高校へ、あるいは高校から大学へ。就活においては、教育機関から企業へ、あるいは企業から企業へ。死においては、「この世」から「あの世」へ。人間は移動に伴い、一度死に、そして然る後、生まれ変わる。この過程には、「不安」や「恐怖」を伴う。そこで、それを取り除くためのビジネス、例えば、自己啓発、例えば、塾や参考書、例えばお布施、が生まれる。

けっ、くだらねえぜ。

旧劇場版と新劇場版で本質的に何が異なるのか。

庵野秀明さんはなぜ新世紀エヴァンゲリオン新劇場版を製作せねばならなかったか。私は序、破、Qを観るたび、このひっかかりを覚えた。だが、最近その問に一定の答えを見出すことができたため、幾ばくかの考察を記す。

旧劇場版と新劇場版の明白な差異は、 旧劇場版では、人類補完計画が遂行されるまでが描かれている(補完は失敗に終わるのだが)のに対し、旧劇場版は、「破」のラストにてシンジがレイを助けるためにとった行動が結果的にサードインパクトを引き起こすこととなり、それ以降の「Q」「:||」はサードインパクト後の世界が描かれている点だ。ここで思い出して欲しいのは、旧劇場版においてサードインパクトとは全的滅亡として想定されており、かつ人類補完計画とは他者のいない世界、「私は〇〇である」と主張する必要のない世界であると想定されていた、ということだ。そうであるとするなら、人類補完計画後を描くことは不可能なはずだ。なぜならそこでは物語など存在するはずがなく、仮に存在したとしても、私たちが、気持ちを重ね合わせるキャラクターなどいるはずがないのだから。

だが、新劇場版ではサードインパクト後の世界が描かれている。なぜか。それは、サードインパクト後の世界に、ミサトさんも、アスカも、碇ゲンドウも存在したからだ。シンジ君にとっての「他者」は、世界が崩壊した後も存在したのである。このことが意味することについて、もう少し考察する必要があるだろう。問としてはこうだ。旧劇場版と新劇場版とで世界観にどのような違いがあるか。旧劇場版の世界観は、「(シンジ君の)自意識の消滅=世界の全的滅亡」という独我論的なものだ。一方、新劇場版ではその前提が崩れ、滅亡すらも相対化されているのである。前者を、三島由紀夫的な世界観とするならば、後者は武田泰淳的な世界観と言いうるであろう。

 それでは、最初の問に戻ろう。庵野秀明さんはなぜ新世紀エヴァンゲリオン新劇場版を製作せねばならなかったか。その問に答えるためには、Qのキーワード「希望は残っているよどんな時にもね」を思い出す必要がある。このキーワードを見たとき、東北地方太平洋沖地震の被災者宛てのメッセージではないか、と思った人も多いのではないか。大震災で生き残った人の中には、「なぜ彼、彼女が死んでしまったにもかかわらず、私は生きているのか。」と考えた人もいたであろう。この問は考えて答えが出る類の問ではない。この問から抜け出すためには、生きている他者からの応答、「希望は残っているよどんな時にもね」が必要ではないだろうか。大事な他者の死は端的に世界の崩壊である。だが、全的滅亡ではない。なぜなら「私」は生きており、私の問いかけに答えてくれる「他者」(アスカであり、カオル君)がいてくれるのだから。このキーワードは製作者から被災者へのメッセージであり、新劇場版Qを製作した意図であろう。

「:||」の予告では、エヴァに似た何かが戦闘を繰り広げていたように覚えている。そこには他者との完全なる同一化という意味での救いなど一切ない。しかし、希望と絶望、愛と憎しみに塗れた世界がある。さて「:||」ではどのようなストーリーが展開されるのであろうか。今から楽しみである。

滅亡について

AKIRA新世紀エヴァンゲリオンマクロスフロンティア、NARUTO・・・。これらアニメの共通点はなんだろうか。それは、滅亡、あるいは他者が存在しない世界がある種「理想」として描き出されている点だ。(物語の最後には主人公が勝利し、滅亡は阻止されるのがほとんどであるが。) このことは、私たちは暗々裡にそれを欲望していることを端的に現しているだろう。

私は東北地方太平洋沖地震が話題にのぼるたび、われわれ日本人は、本当は三・一一的何かを欲望していたのではないか、と考えてしまう。東北へ救援に向かった多くの人々は、善意から向かったであろう。しかし、彼等の心の内奥で実は、破滅的な状態となった東北を見たい、という欲望が駆動していたのではないか、と。私は二年前ボランティアとして東北に行こうか、考えたが、そういった欲望が実際に働いていたか別にして、働いているのではないか、という疑いを持ち、取りあえず行くことを辞めた。

おそらく、こんなことを書くと、被災した人、救援活動に励んだ人から批難を浴びるであろう。それでもこんなことを書くのは、ヒューマニズムの観点から滅亡を擁護することはできないからだ。

どれだけ我々が否定しようが、我々は滅亡、あるいは日常性が崩壊することを暗々裡に欲望している。そして、我々がそれを欲望するのはチープな表現を用いるのであれば、心が荒廃しているからだ。真の意味で、滅亡を遠ざけるには、荒廃した心を耕す必要がある。そしてそれができるのは、文化(culture)であり、芸術だろう、と私は信じる。

研究者

教授の研究室に行く機会があったため、ついでに、二年間どのように大学と付き合い、どう研究するのがいいか、という話をした。彼は私に次のように言った。

「二年間で出来ることなんで高々知れている。教授に劣らぬ研究をするには、君が興味を持つ対象と君が出来るかぎり接近することだ。私はそこしか見ない。そのためには、流行に流されない、興味関心の軸を身につける必要がある。そのために乱読しなさい。小説でも、知的なものも、そうでないのも。本じゃなくとも、映画でも、音楽でもいい。そして啓蒙される機会を多く持ちなさい。」

此処で言う「興味」は「問」と同義であろう。思想家は本質的に問に従属している。問なくして思想家はあり得ない、とバタイユは言う。意識化された問であれ、そうでない問であれ、それと真摯に向きあうこと。「私はそこを見る」でなく「私はそこしか見ない」と言い切った彼に痺れた。彼を選んだのは間違いでなかった、と思った。

同時に、非常に厳しい大学院生活になるだろうことを自覚した。「乱読しなさい」はおそらく比喩だ。それは「目を見開き、自分と、自分が属している世界を見ろ」ということだ、と私は解した。それが如何に困難なことか、二年間で学ぶのだろう。どうせ行くのなら必死に食らいつきたい。