Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

「鬼の子」の視点に立つことで倫理的な人間になった気になるのは愚かなことだと私は思いますが、みなさんはどう思いますか?

「しあわせ」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」の最優秀賞は「ぼくのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」というものだそう。ある人にとっての善は、他の人にとっては悪かもしれない。誰かの願いが叶うころ、あの子は泣いているかもしれない、そういったメッセージをこめたのだろう。入賞作は以下。「いつも通り」、「冷蔵庫にプリンをいれよう」、「しあわせはワンサイズです。」詳細は以下。新聞広告クリエーティブコンテスト 2013年度入賞作品 | 新聞広告データアーカイブ

共通するのは、身の丈にあった、背伸びしない「しあわせ」。ポストモダンあるいはポスト構造主義の時代状況、震災以後の風潮が端的にあらわれている。私はこういった「しあわせ」の捉え方は嫌いではない。(好きでもないが)しかし、ある種の危うさを孕んでいることだけは指摘しておくべきだろうと思う。さて、最優秀賞をもう一度読み上げよう。


ぼくのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。


みなさんご存知、日本のおとぎ話『桃太郎』は、桃太郎(=正義)がお婆さんから黍団子を貰い、イヌ、サル、キジを従えて、鬼ヶ島にて鬼(=悪)を退治し、めでたしめでたしという物語である。対して、このキャッチコピーは鬼の子どもの立場からすると、お父さんを殺した桃太郎こそ悪の権化に過ぎないことを示すことで、人それぞれ「しあわせ」のかたちは違うということを突き付けている。このキャッチコピーが受け入れられる理由は、大義名分、あるいはマジョリティによって抑圧された小さな声を拾い上げるという意図が正義として受け入れられているからだろう。

さて、この大義名分にグローバル化、あるいは自由主義貿易、小さな声に日本の小規模経営者のTPP反対を代入してみよう。すると、このメッセージは途端にナショナリズム的ニュアンスを帯び始める。私がこのキャッチコピーを耳にしたとき、連想したのは、自民党の政権公約「日本を取り戻す」であった。ある人にとっての善は他の人にとっては悪である、という認識は正しい。しかし、それを声高に言うことは、「私には私のしあわせがあり、あなたにはあなたのしあわせがあるのだから、私には関わらないでください」という結論に行き着く。それは具体的には、日本国民(=マジョリティ)が移民(=マイノリティ)を排斥するといったかたちで現われる。

つまり、ある文脈においては、鬼の子どもの立場(=マイノリティ)に立つことと、桃太郎の立場(=マジョリティ)に立つことのあいだに本質的な差異などないのだ。我々は「しあわせ」を希求していること、そして自分の「しあわせ」のためには、他人のしあわせを容易に踏みにじりかねないということ、そのことを見定めるべきなのであり、それは鬼の子どもの立場に立つことで得られる類のものではない。鬼の子どもの立場(=弱者)に立つことで、倫理的な人間になった気になっている分だけ、桃太郎の立場よりも重症ではないだろうか。

書評

研究の片手間に本を読み書評を書きFacebookに流すことにした。Facebookには「世間」が存在するが、そんなのには負けてられない。

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

やれ自分がこんななのは親のせいだ、やれ貧乏な家に生まれたから自分はこんななんだ、といった言説を頻繁に耳にする。「私」そのものが他者の影響のもとにできあがっているのだから、自分の過失に対して原因を求めれば、必然的にこれは自分の問題ではない、という結論に至る。それはある意味で正しい。だが、この結論に到達したからといって、問題が解決するわけではない。新たに何かしらの問題が生じると、性懲りもせずそれを誰かのせいにして自分を納得させる。果たしてそこにあなたの主体的な契機、あるいは自由はありますか?‐そんなあなたへ。

ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。」(p.71)から始まるヘーゲル法哲学批判序説は、執拗に、人間の頭を押さえつける宗教、社会の批判を敢行する。それは、人間が国家を、社会的結合を創り、維持しているにもかかわらず、当の国家、当の社会的結合のために個人は存在するかのようにそれらは錯覚させ、その最たるものが宗教だからだ。ゆえに、マルクスは次のように言う。「批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身の中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。」(p.73) 夢も慰めもない鎖(『資本論』においてそれは貨幣であり、資本)をふりほどくこと、言い換えると、人間の自由を確保すること(自己を原因とすること)、これこそがマルクスの倫理観である。そしてそれは、哲学、政治、経済とさまざまな領域に論及したマルクスが終生変えなかった姿勢である。人間が迷夢から醒めるまでマルクスは読まれ続けるであろうし、読まねばならない。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)

食べなければ死ぬ、だが、食べ得るものは人肉しかない、という状況で部下の肉を食べて生き残った船長。彼は、食べる前、食べた後、裁判のときと一貫して「我慢している」。何を我慢しているか?弱音を吐くことを。食べた言い訳をすることを。食べれば生き残れる確率が上がるという状況で食べないという選択肢を採用すること、あるいは、止むに止まれぬ事情で食べたのであって、私は本当は食べたくなかったのだ、と心情倫理をもらすこと、ひっくるめて言い換えると、私は人間的だ、と主張することは簡単だ。そんな簡単な選択肢があるにもかかわらず、彼はなぜ我慢したのだろうか?それは、仮に食べずに精神的に救われたとしても生き残ることはできないし、仮に裁判を受け入れたとしても、食べられた人間=死者は決して許してなどくれないからだ。必要があれば、人間性、道徳、救済を括弧に入れること、そして、自分がしたことの結果に耐え、我慢し「生きる」こと。武田泰淳に教えられることは多い。

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

経験から推して、暴力がこの世からなくなる可能性はないと言っていいだろう。法が保証する権利は、一種の暴力であるし、自己の内から沸々と湧き起ってくる怒りや攻撃的情動の存在を否定することはできないからだ。だが、暴力がこの世からなくならないという結論は、戦争を排除できないことを意味しない。(戦争勃発の可能性は常に内包し続けるだろうが)フロイトは本書で以下のように述べる。
「それは、わたしたちがなぜこれほど反戦活動に熱中するのか、わたしもあなたもほ かの人々も、人生のその他の多くの苦痛に満ちた苦難の一つとして、戦争をうけい れようとしないのはなぜかということです。戦争というものは、むしろ自然なもの で、生物学的に十分な根拠があり、実際問題としてほとんど避けがたいものと思わ れるからです。(略)わたしたちが戦争に強く反対する主な理由は、ともかく反対 せざるをえないからだと思います。わたしたちは平和主義者ですが、それはわたし たちが生理的に戦争が嫌だと感じるからです。それだからこそ、戦争に反対し、さ まざまな反戦論を提示しようとするのです。」(p.33-35)
このフロイトの発言は一考に値する。なぜなら、我々が戦争に 反対する理由を、倫理観や道徳等、「意識」の領域、つまり理屈に求めるのでなく、当の本人には知られず、であるにもかかわらず、その本人の行為に影響を及ぼす生理=「無意識」の働きに求めているからだ。無意識の領域は、まさに意識できない領域であるがゆえに、執拗である。その無意識が戦争を拒否していると仮定するならば、戦争を排除する可能性は残されていると言えるだろう。この書を読んであなたは何を考えますか?

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(p.10)とハートフィールドは言った。僕は僕のものさしで、距離を確認できるようになるまでに8年間かかっている。彼女が自殺してから僕がレーゾン・デートウルを取り戻すまでにかかった時間だ。 完璧な文章など存在しないが、完璧な絶望もまた存在しない。ものさしを持たないあなたへ。

身心快楽 (講談社文芸文庫)

身心快楽 (講談社文芸文庫)

武田泰淳は次のように言う。
「滅亡は私たちだけの運命ではない。生存するすべてのものにある。世界の国々はかつて滅亡した。世界の人種もかつて滅亡した。これら、多くの国々を滅亡させた国々、多くの人種を滅亡させた人種も、やがては滅亡するであろう。滅亡は決して詠嘆すべき個人的悲惨事ではない。もっと、物理的な、もっと世界の空間法則にしたがった正確な事実である。」(p.89)
「私はこのような身のほど知らぬ、危険な考えを弄して、わずかに自分のなぐさめとしていた。それは相撲に負け、カルタに負け、数学で負けた小学生が、ひとり雨天体操場の隅にたたずんで、不健康な目を血走らせ、元気にあそびたわむれる同級生たちの発散する臭気をかぎながら「チェッ、みんな犬みたいな匂いをさせてやがるくせに」と、自分の発見した子どもらしからぬ真理を、つぶやくにも似ていたにちがいない。……滅亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打ちにすぎぬのであろう。」(p.90-91)
倫理が、舌打ち、言い換えればルサンチマンに過ぎないことを自覚していたところに武田泰淳の非凡さがある。滅亡について思考すること、倫理的であることは、弱者の戯言に過ぎない。だが、たかが舌打ち、されど舌打ちだ。誰も舌打ちをしない世界を想像してみよう、それこそ地獄ではないか。武田泰淳の口から漏れ出る舌打ちは一考を要する。

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

2年ほど前に『職業としての政治』というヴェーバーの講演録を読み、最近また読み返した。考えさせられる講演だったのでつらつらと書評を記す。「しょうがない」は「仕様がない」と書く。こうすればこうなる、といった仕様書なんて本来ないんです。いや、本当に。私たちは意図せぬ結果を常に招く、だから、どんな結果になろうと、それが当初の意図、「心情倫理」に反していたとしても、その結果に対して責任を取らねばならない。(取る「べき」ではないし、まして取った方が良いではないことに注意) これがヴェーバーが言う「責任倫理」であり、政治家はこれに忠実たるべきだ、と彼は言う。この姿勢は職業政治家に限らず、我々のあるべき姿として読むことも可能だろう。(というより私はそのように読んだ。) 我々は自分の意志で母親のお腹に宿ったわけではない。気づいたら「私」として、「人間」としてそこに在った。何の違和感もなしに。これは例外的な事態ではない。この世には気づいたら始まっていることしかなく、逆に言えば、「気づく」ということが全ての始まりなのかもしれない。だが、あくまで始まりに過ぎない。この地点では、まだ「単なる物理現象」の域を出ない。なぜなら、ここで言う「気づく」とは「認知」に過ぎないからだ。ではどうすべきか、どうしたら能動性(=自分の意志)を確保できるだろうか?ここに命懸けの飛躍がある。ここがロードス島だ。ここで跳べ!(言ってみたかった。)ヴェーバーならこう答えるだろう。すなわち、「現在置かれた状況を認識した上で、まるごと自己の問題として引き受けること、つまり責任を負うことである」と。さて、「責任と自由意志が不可分である」ことは、ずっと昔から言われてきたことであり、新しさはない。だが、それを敢えてヴェーバーが言わねばならなかったということ、岩波文庫に収録され古典として認められているということ、その意味を我々は考える必要があるだろう。

今、思想は可能か。

という問いを友人から投げかけられた。私が如何に声を振り絞り、真摯に語ったとしても、思想そのものに影響力がないのだとすれば、私の声は他者に届かないのではないか。端的に言えば、私の発言には価値がないのではないか、という不安。

複製が容易になった今日、言葉はもはや力を持ち得ない、プラトンが言うよな真なるイデア界、あるいはショーペンハウアーが前提とするようなギリシア的教養がもはや成立しない等等、上記問いが議論される必然性はある。だが、私は上記問いを見聞するたび、カントが『純粋理性批判』の第一版序文で記した以下の一文を想起し、自分を励ますことにしている。

かつては形而上学が諸学の女王と称せられた時代があった。
もし意志をそのまま行為と解するならば、
形而上学はその対象が著しく重要なところから、
かかる尊称を受けるにふさわしいものであった。
ところが今日では、形而上学にあらゆる軽蔑を
あからさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。


カントが生きた時代、すでに形而上学は影響力を持ち得なかったのだ。そんな中、彼は形而上学を再建することを試みた。そして、『純粋理性批判』はおおよそ二百年経った今日においても、(たとえ一部の知識人層だけだとしても、そしてそれが上巻だけだとしても)読み継がれている。

だから我々は思想を語る以前に、「今、思想は可能か。」と立ち止まるのでなく、何度でも命懸けの飛躍を試みるべきなんだと思う。

「気持ち悪さ」と「納得」

この社会で認められる、あるいは生きていくためにすべきこと、する必要があることはそんなに多くない。例えば、就活、たとえば、結婚、たとえば、google を使いこなすことなどなど。

そういったすべきことの中にも、感覚的に、あるいは生理的に、「気持ち悪い」ものがある。例えば、就活。大学三回生になったら揃って髪の毛を黒に染め、葬儀服のようなリクルートスーツを着て、あたかも自分が有用な人物であるかのようにアピールする。茶番。どうしてそんなことに真剣になれるのか、分からない。いや本当に。徹頭徹尾、気持ち悪い。

LINEだって、Facebookだって、twitterだってなんだってそうだ。使いたいから使ってるのではなく、みんなが使っており、それを使っていないと、関係性を維持できないから使っている。ふとしたとき、使っているのではなく使わされているという思いに囚われる。気持ち悪い。

 みなが足並みをそろえて「よーい、どん!」でスタート。誰が一番最初に走り抜けることができるか。誰を蹴落とすことができるか。いかに合理的に歩を進めるか。もしそのレースから降りれば、良くて変人扱い、悪くて落ちこぼれ。人生を道と表現するのはわかるが、レースと表現することには気持ち悪さしか感じない。いや、本当に。

現代の日本においては、レースから降りても生きていくことだけならそんなに難しくないだろう。それなりに孤独に対する耐性もある。だから、自分が感じる気持ち悪さに正直でありたいし、あるべきなんだと思う。こんなことを書くと、「いつまでも子どもだな、早く大人になれよ」と思われそうだし、事実周囲の人間から思われそうだが、そんなことは気にしない。

ではどうするか。自分がすべきこと、したいことに向かって、走る=努力すること。それに尽きるだろう。私は走ること=努力することが好きだし、努力せず不満だけ漏らす人間が嫌いだ。走っていさえすれば、そしてそれが結果として誰かのためになっていたとすれば、「納得」のいく人生になるだろう。

愚直に勉強する。

先祖について

こういうのをカルチャーショックというのだろうか。

仲の良いとある友人の家には、なんと仏壇がない。そして、彼が住む新興住宅街のどの家にも仏壇がない。さらに驚くべきことに、この事実は決して驚くべきことでなく「一般的な」ことらしい。

私は今まで、大家族が崩壊して核家族化が進んでいることを単に、資本主義がその外部である共同体=家族をのみこんだ結果としてのみ理解し、それは、種の再生産にとって憂うべき事態であると理解していた。なんというか、家族の規模が縮小化することに、それ以上の危機感を抱いていなかった。そして、おそらくそれは、我が家が、核家族でありながらも、家に仏壇があり、お盆にはお墓参りを欠かさず行ってきたからだろう。

だが、この変化はそれ以上の意味を有しているようだ。三世代以上一緒に住んでいることと、二世代しか一緒に住んでいないことの間には、おそらく本質的な差異がある。それはすなわち、後者は前者と異なり、「先祖」との関係をほとんど持たないということであり、家「族」としての「族」一貫性をほとんど有していないということである。言い換えれば、我々は、個体を識別するという機能を除いて、もう「名字」を持つ必要性を持ち合わせていないのである。

ここで一つ私の地元のとある風習の話をする。 私はお盆に実家に帰るたびに地元の夏祭りに参加している。祭りが行われているあいだのみ、会場の隣にある歴史民俗資料館が無料開放されるため、毎年私はそこで二時間ほど展示物を閲覧している。その展示物の中に「上げ仏壇」というものがある。私の故郷は、昔から洪水が多く、たとえば、一六〇〇年から一九〇〇年の三百年のあいだに、五十回つまり、六年に一度洪水に見舞われている。そのため、お金持ちの家は、一階が浸水しても、仏壇だけは浸水しないように、ロープを引っ張れば、一階から二階に仏壇が上がるような仕掛けがあった。これが「上げ仏壇」と呼ばれるものだ。当時の人は、洪水が発生したら逃げることより仏壇を避難させること、それを重視したのだ。

このことは、現代に生きる我々にとって、おそらく驚くべき事実だろう。我々はマイホームを手に入れた代償として、先祖を敬う心を忘れてしまった。私がこんなことを書いたところで、共同体=家族の分解を止めることはできないだろう。なぜなら、資本主義は、その外部をのみこむことでしか、存続できず、そして、資本主義は終わりを無限に先延ばしにすることで、維持されるシステムだからだ。だから、忘れつつある現代人を断罪しようという意志を私は持たない。だが、我々はそういったものを忘れつつあるということだけは口を酸っぱくして言い続けたいし、言い続けるべきなんだと思う。なぜなら、先祖と将来世代を想定せずして、倫理など本質的にあり得ないからだ。

作品を通したコミュニケーション

京大経済学部、経済&経営学科を卒業し、人間環境学研究科、つまり総合人間学部の大学院へ進学してみて一番驚いたのは、発表が Power Point 等を用いたプレゼンテーションでなく、文章、つまり自分の思考を物語にした作品で行われていることだ。

内容の伝わりやすさは前者が優っている。なぜなら前者は視覚情報を駆使しているがゆえに、記憶に残りやすいからだ、それに対して、後者はただ読み上げている場合がほとんどで、非常に分かりにくい。だから、多くの大学、学部、会社の資料としてプレゼンテーションという手法が用いられている現状は理にかなっている。

それでも、私は後者に惹かれ、かくあるべきだと思った。両者ともコミュニケーションを円滑化するためのメディアであるという点で一致している。だが、前者は如何に相手を説得するか、納得させるかに力点が置かれ、ほとんどそれが全てである。そこには、正直に言って、記された内容に対する責任が伴わない。

それに対して、後者、つまり「作品」は、発表者からも聴講者からも独立した場を形成しており、それがあることで、コミュニケーションはむしろ困難を伴うこととなる。そこでは、「作品」が主人となり、その場を支配している。そこにいる皆が、この不可解な思考の断片を如何に料理すべきか、料理できるのか、必死に考えた上でないと、コミュニケーションが始まらない。

ゆえに、作品を通したコミュニケーションは非常に困難なものとならざるを得ないし、授業の参加者に知的な負荷を強いる。先生方は授業の参加者がそれに応えることができるか否かは一考する必要はあるが、私は、それに応え得る人としか付き合いたくない。

 そろそろ夏休みに入るが、二ヶ月を無為に過ごさないため、八月の終わりと九月の終わりに「作品」を持ち寄り、夏休みの自分の思考を交換しようと考えている。どんなコミュニケーションが生まれるか今から楽しみである。もし参加したい方がいらっしゃればご一報ください。

社会に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ それも嫌ならっ・・・

「あなたは世界中で起こる何もかもがインチキに見えてるんでしょうね」―J.D.サリンジャーライ麦畑でつかまえて

 印象に残る文学、それは、自分の今までの人生があたかも主人公のそれであったかのように錯覚させるものだろう。そして、J.D.サリンジャ「ライ麦畑でつかまえて」は私にとって、そのうちの一つであった。

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

人の弱みを論いコールをかけるサークルの飲み会、同大学卒というだけで先輩面をして説教する輩、出席票の記入を頼み遊びほうける輩、学部生に「おぉ」と思わせるためだけに、難しい言葉を覚える輩、自己啓発本を読み、変わった気になる輩、ナンパ読本を読み他者を理解した気になるサノバビッチ・・・。そう、僕は間違いなく世界中で起こる何もかもがインチキに見えている。だから、この小説を読みながら、胃腸がきりきりと痛み、何度も吐きそうになった、いや本当に。

 この世のすべてのインチキに対する怒りを、僕はできるかぎり、外に表出しないように我慢してきた。だからなのかは分からないが、僕が患う病気のほとんどは、アレルギー、つまり免疫が過剰に反応し、己の身体を攻撃するものだ。口を噤んだら、それに身体が反応した、そんな感じだ。僕は、高校三年生のとき、難病と言われる潰瘍性大腸炎(アレルギー性の病気)を患い入院した。そしてそのとき、僕はこの性格を治さなければならない、僕は僕を変えなければならない、そう思った。

 それから六年経った。親元を離れ、一人暮らしをはじめた。自分を変えるチャンスだったはずだ。だが、結局のところ、僕は何一つ変わっていないのではないだろうか。むしろ、本を読むようになり、自己を映す鏡をたくさん持つようになった結果、ますます自己という檻に雁字搦めになったのではないだろうか。そんな気がしてならない。僕は実家に帰り、元気のない僕に失望した親の顔と対面するたび、未だに落下の一途をたどっていることを確認する。

 世界のすべてはインチキだと思うことと、世界のすべてがインチキであることは別のことだ、だから、あらゆることに腹を立てないよう自己を改造すればそれで解決じゃないか。そう読者は思うのではないだろうか。なぜなら、僕もそう思うから。でも、六年間僕はそれに失敗し続けたのだ。

ライ麦畑でつかまえて」には、僕が求めているような「答え」は書かれていない、ただ問いが提示してあるだけだ。というより、小説に自身の解決策など書かれているはずがないし、また書かれるべきでもない。それは、僕が考えるべきことだし、僕が僕の人生の中で見出すべきことなんだと思う。攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX は 「ライ麦畑でつかまえて」で提示された問いに対する製作者の思考、本当によくできた思考だ。僕は「ライ麦畑でつかまえて」をどう読みうるだろうか。