Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

丸山眞男生誕百年

最近、丸山眞男が読み返されている、そんな印象を受ける。生誕100年目であることも関係しているだろうが、安直な、責任感に欠けるナショナリズムに対する批判的意味合いが強いのではないだろうか。

丸山眞男は戦前の安直な「近代の超克論」を批判し、日本は未だ近代化すらしていない、すなわち、近代的な主体的個人が存立していない、と言い、リベラリズム=民主とナショナリズム=愛国は対立するものではなく、両立するものであり、それこそあるべき姿だ、とした。そして、それは戦後の一つの空気であり、多くの知識人がそれに賛同した。

それが一つの空気になりえたのは、戦前に彼らが抑圧されていたからであり、科学的態度を堅持しただけで非国民とされたからであろう。その気持ちはよく分かるし、それが間髪入れずに「正しい」ことなんだ、とも思う。心情倫理(=ナショナリズム)と責任倫理(=個人主義)の麗しき均衡理論。

だが、その理想が、果たして大衆に求め得るのだろうか。そして、それを唱える知識人に求め得るのだろうか。私はそれは無理だ、理想主義だ、と思う。そして、個人主義=責任をとる態度はリアリズムからしか出てこないのだ、とすれば、主張する当人がリベルナショナリストでないことを意味する。ゆえに、リベラルナショナリズムを唱えることで何かしらを成し遂げたと満足する知識人を私は軽蔑せざる負えない。