Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

あなたは何を選びますか。

資本主義社会において計算可能性という意味での合理性を追求すれば、「おひとり様」暮らしが最適戦略である。なぜなら、自己は手放せないし、他者は他者であるがゆえに、思い通りにならないからだ。ゆえに、足枷の外された資本主義社会において「個人化」の進行は蓋然性を持つ。問題なのは、むしろ、個人化した自己が、何をシンボルに、何と一体化しようとするか、という点にある。

戦後は一貫してナショナリズムに対するアレルギーが蔓延していたために、(現在もその効能は残っている。)そのシンボル=共同体は企業が担い、終身雇用=永久成長物語が神話として機能した。だが、バブル崩壊以後、成長神話が機能しなくなるとともに、戦後民主主義を擁護した知識人もこの世を去った。(だが、まだナショナリズムに対するアレルギーは少なからず機能している。)ゆえに、現在は、どのシンボル=神を信奉すべきなのか、の合意にはまだ至っておらず、神々が闘争している状況である。我々はその中から一つのシンボル=神を選ばなければならないし、選ぶことができる。

さて、それは神=デーモンである以上、基本的には、自己を超越したものである。しかし、自己を超越しているということが、すなわち、コントロールの埒外にあることを意味するわけではない。日本人の大半は、戦後一貫してナショナリズムを嫌悪してきた、目を背けてきた。(ナショナリズム嫌悪という合意のもとで、日本人という同一性を担保してきた面も否めない。)だが、当面ナショナリズムという神=デーモンを廃棄することはできない以上、ナショナリズムという名の神=デーモンを我々は理解せねばならない。(もちろんそれはナショナリズムにかぎった話でないことは言うまでもない。)