Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

自己紹介と決定不可能性について

昨年の十月頃、ナンパを生業とする友人が自己紹介で何を話すべきか分からなくなったのでそのことについて話をしたい、と言うので、所属集団で人を忖度すること、されることが大嫌いな友人等と軽い座談会をした。

 先日、そのナンパを生業とする友人と私と初めて会ったに等しい二人とでカフェに行き、自己紹介をした。彼は名前と学部を名乗るだけで切り上げた。そのとき彼から、自己紹介なんかしなくとも話すうちに相手のことを理解できる、という自信を感じ、一皮むけたな、と感じた。

が、私は昨年の十月から一歩も出れていない。

私はいまでもtwitterのvioに自分の所属集団、好きなものをスラッシュで書き連ね、自分を表現している人に違和感を抱いている。それはお前ではないだろ!!!、と。だが、そんな彼等の気持ちがよく分かるし、自己紹介になれば所属集団をペラペラとまくし立てる。

私は〇〇である(〇〇には例えば、ニンゲン、宇宙人、京都大学の学生などが入る。)、という自己主張は原理的に確定不可能だ。では、友人が「あなたは〇〇です。」と言えば確定するだろうか。確定しない。なぜなら第三者が「あなたは〇〇ではない。」という可能性が残されているからだ。では、二人がそういえば確定するだろうか。確定しない。

どれだけ人数が増えても、私たちがいる次元よりも一つ上の次元で裁定する存在(=神)を想定しないかぎり原理的に確定しない。では、もし神がいなかったとしたらどうだろうか。私たちは決定不可能という名の穴に常に怯え続けねばならない。私は何者であるかという問、つまり自己意識には、そういった怯えが常に付き纏う。

 では、神なしで「私は異常者ではない」ことを証明するにはどうしたらよいだろうか。同類を増やせばよいのだ。数十年前、BLは隠すべき趣味であったが、現在は広く社会に受け入れられている。それは、BL好きの人数がティッピング・ポイントをこえたからだ。いまや「BL好きは異常者ではない」と認定された。

僕たちは社会的に確立したカテゴリーをスラッシュで並べることで満足している。私を含め私の周りにはそれが嫌いなニンゲンが多い。どれだけそれを嫌おうが、自分が何者なのか分からない不確定状態を回避するために私たちは「私は〇〇です。」と宣言する。そして宣言したがゆえに、不可避的に不確定状態に落ち込んでいく。それでも私は三月までは、京都大学の学生であることにすがらざるを得ない。