Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

生臭ビジネス

「生臭坊主。」

先週執り行なわれた祖父、祖母の法事に現れた坊主を形容するのにこれ程適切な言葉はない。坊主でありながら老人ホームの経営をする彼は、高級車から降り、家にあがってすぐ、「この座布団では腰が痛い」と文句をつけ、扇子を放り投げお経を読み始めた。昼食の席では、お酒を煽り、宗教者とは思えない発言をし、帰っていった。坊主なんてそんなもんだと諦めているため、失望も、怒りも、殺意も湧いてはこなかったが、しこりが微かに残った。

 私にとって、(そしておそらく多くの若者にとって)坊主は存在するに値せぬ存在者である。なぜなら、彼等は葬式や法事のときだけ、意味のわからぬお経を唱え、愚にもつかぬ説法を垂れ、お金を受け取りタダ飯に預かり颯爽と帰っていくだけ、本当にそれだけの存在者として我々の目に映るからだ。

 もし仮に本当にそれだけの存在であるならば、とうの昔に坊主は滅びていたはずである。だが、坊主は現に(「生臭」という枕詞とともに)存在する。なぜだろうか。それは坊主が、(正確に言えば、仏教が)死後の世界に対して「意味付け」を行うことで、「死への恐怖」を軽減する役割を果たしているからではないか。「死」ほど無-意味を晒すものはなく、「死」ほど意味を求めるものはない。

 ところで、人間の恐怖を利用したビジネスとして「受験」と「就活」が挙げられる。そして、この二つは驚くほど宗教ビジネスに似ている。これら三つの共通点は、それらがある「移動」を伴う点だ。受験においては、中学校から高校へ、あるいは高校から大学へ。就活においては、教育機関から企業へ、あるいは企業から企業へ。死においては、「この世」から「あの世」へ。人間は移動に伴い、一度死に、そして然る後、生まれ変わる。この過程には、「不安」や「恐怖」を伴う。そこで、それを取り除くためのビジネス、例えば、自己啓発、例えば、塾や参考書、例えばお布施、が生まれる。

けっ、くだらねえぜ。