Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

「偶有性」-「必然性」

偶有性(他でもありえたこと)と必然性(それ以外にはありえないこと)を両極に定位すると、蓋然性(ありそうである)は概ねその中間に存する。この「偶有性」-「必然性」という二つの概念をもってして現実を照射すると、複雑な現象も見え易くなるように思われる。

 私は西洋哲学読書会を主催しており、先月プラトンの『饗宴』を読んだ。『饗宴』とは軽くお酒を飲み、その席で各人が「愛」について演説をした模様をプラトンが文章にしたものだ。我々はその読書会の後、饗宴第二部という名目でお酒を飲みに行った。その席で彼等に真似、「友とはなにか」という小っ恥ずかしいことを議論した。(茶化し、茶化されながら議論は進展した点で、彼等とは大違いだが)

 私は、友とは、彼あるいは彼女と今この場を共有していることが、偶有的な事柄、つまり彼、彼女以外でもありえたこととして映るわけでなく、さりとて、必然的な事柄、つまり彼、彼女以外考えられないこととして映るわけでない。友とは、今この場を共有していることが、蓋然的な事柄として映る存在であるように思う。

必然性は運命と言い換えることもできる。運命とは主体的な選択でなく、常に既に決定された事柄を指す。偶有性を肯定的に捉えれば、一期一会の境地であり、これまた運命と同義である。必然的でも、偶有的でもないということは逆に言えば、主体的に彼、彼女を選択したことを含意する。

「偶有性」-「必然性」という枠組みは、両親との関係にも応用できる。この父親とこの母親から生まれてきたという事実は、(特殊な事情がないかぎり)常にすでに決定された事項、つまり必然的な事項である。

だが、反抗期だったころの自分を思い出してもらいたい。反抗期においては、「私はなぜこんな両親のもとから生まれたのか」という絶望的な問と向きあうことになる。友人の家に遊びに行き、親切で幸せそうな家庭を垣間見ることで、「私はこの家の子どもでもあり得たのではないか」と想像する。その際、今まで必然的なものであった家は、他でもあり得たもの、つまり偶有性のもとに晒される。

では、私たちはこの絶望的な問から如何にして抜けだしたのか。私の場合、母親も父親も一人の人間に過ぎないと、あるとき突然理解し、気づいたら反抗期を抜けだしていた。これはある種の諦め、諦観だ。こんなどうしようもない両親の元から生まれてきた、どうしようもない自分を引き受けるしかない、そう思えたとき、私は反抗期を抜けることができた。(私は依然として反抗期を乗り越えていないのではないかと思うときが多々あるが)

以上から、両親との関係は三段階存在するように思われる。一段階目は、母親に包摂され、父親の権威のもとに従属している段階。この段階においては、両親が他でもありえたのではないかと想像することすらない。二段階目は、反抗期。この段階においては、両親が他でもありえたのではないか、という想像と、「他ではありえない」という事実の板挟み状態に悪戦苦闘する。三段階目は、反抗期後。この段階においては、父親の権威から抜け出し、父親と母親と対等な位置に属する。

以上のように、 この「偶有性」-「必然性」という二つの概念をもってして現実を照射すると、さまざまな諸関係を評価することができ便利だ。