Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

作品を通したコミュニケーション

京大経済学部、経済&経営学科を卒業し、人間環境学研究科、つまり総合人間学部の大学院へ進学してみて一番驚いたのは、発表が Power Point 等を用いたプレゼンテーションでなく、文章、つまり自分の思考を物語にした作品で行われていることだ。

内容の伝わりやすさは前者が優っている。なぜなら前者は視覚情報を駆使しているがゆえに、記憶に残りやすいからだ、それに対して、後者はただ読み上げている場合がほとんどで、非常に分かりにくい。だから、多くの大学、学部、会社の資料としてプレゼンテーションという手法が用いられている現状は理にかなっている。

それでも、私は後者に惹かれ、かくあるべきだと思った。両者ともコミュニケーションを円滑化するためのメディアであるという点で一致している。だが、前者は如何に相手を説得するか、納得させるかに力点が置かれ、ほとんどそれが全てである。そこには、正直に言って、記された内容に対する責任が伴わない。

それに対して、後者、つまり「作品」は、発表者からも聴講者からも独立した場を形成しており、それがあることで、コミュニケーションはむしろ困難を伴うこととなる。そこでは、「作品」が主人となり、その場を支配している。そこにいる皆が、この不可解な思考の断片を如何に料理すべきか、料理できるのか、必死に考えた上でないと、コミュニケーションが始まらない。

ゆえに、作品を通したコミュニケーションは非常に困難なものとならざるを得ないし、授業の参加者に知的な負荷を強いる。先生方は授業の参加者がそれに応えることができるか否かは一考する必要はあるが、私は、それに応え得る人としか付き合いたくない。

 そろそろ夏休みに入るが、二ヶ月を無為に過ごさないため、八月の終わりと九月の終わりに「作品」を持ち寄り、夏休みの自分の思考を交換しようと考えている。どんなコミュニケーションが生まれるか今から楽しみである。もし参加したい方がいらっしゃればご一報ください。