今、思想は可能か。
という問いを友人から投げかけられた。私が如何に声を振り絞り、真摯に語ったとしても、思想そのものに影響力がないのだとすれば、私の声は他者に届かないのではないか。端的に言えば、私の発言には価値がないのではないか、という不安。
複製が容易になった今日、言葉はもはや力を持ち得ない、プラトンが言うよな真なるイデア界、あるいはショーペンハウアーが前提とするようなギリシア的教養がもはや成立しない等等、上記問いが議論される必然性はある。だが、私は上記問いを見聞するたび、カントが『純粋理性批判』の第一版序文で記した以下の一文を想起し、自分を励ますことにしている。
かつては形而上学が諸学の女王と称せられた時代があった。 もし意志をそのまま行為と解するならば、 形而上学はその対象が著しく重要なところから、 かかる尊称を受けるにふさわしいものであった。 ところが今日では、形而上学にあらゆる軽蔑を あからさまに示すことが、時代の好尚となってしまった。
カントが生きた時代、すでに形而上学は影響力を持ち得なかったのだ。そんな中、彼は形而上学を再建することを試みた。そして、『純粋理性批判』はおおよそ二百年経った今日においても、(たとえ一部の知識人層だけだとしても、そしてそれが上巻だけだとしても)読み継がれている。
だから我々は思想を語る以前に、「今、思想は可能か。」と立ち止まるのでなく、何度でも命懸けの飛躍を試みるべきなんだと思う。