Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

書評

研究の片手間に本を読み書評を書きFacebookに流すことにした。Facebookには「世間」が存在するが、そんなのには負けてられない。

倫理21 (平凡社ライブラリー)

倫理21 (平凡社ライブラリー)

やれ自分がこんななのは親のせいだ、やれ貧乏な家に生まれたから自分はこんななんだ、といった言説を頻繁に耳にする。「私」そのものが他者の影響のもとにできあがっているのだから、自分の過失に対して原因を求めれば、必然的にこれは自分の問題ではない、という結論に至る。それはある意味で正しい。だが、この結論に到達したからといって、問題が解決するわけではない。新たに何かしらの問題が生じると、性懲りもせずそれを誰かのせいにして自分を納得させる。果たしてそこにあなたの主体的な契機、あるいは自由はありますか?‐そんなあなたへ。

ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)

「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果たされているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。」(p.71)から始まるヘーゲル法哲学批判序説は、執拗に、人間の頭を押さえつける宗教、社会の批判を敢行する。それは、人間が国家を、社会的結合を創り、維持しているにもかかわらず、当の国家、当の社会的結合のために個人は存在するかのようにそれらは錯覚させ、その最たるものが宗教だからだ。ゆえに、マルクスは次のように言う。「批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身の中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。」(p.73) 夢も慰めもない鎖(『資本論』においてそれは貨幣であり、資本)をふりほどくこと、言い換えると、人間の自由を確保すること(自己を原因とすること)、これこそがマルクスの倫理観である。そしてそれは、哲学、政治、経済とさまざまな領域に論及したマルクスが終生変えなかった姿勢である。人間が迷夢から醒めるまでマルクスは読まれ続けるであろうし、読まねばならない。

ひかりごけ (新潮文庫)

ひかりごけ (新潮文庫)

食べなければ死ぬ、だが、食べ得るものは人肉しかない、という状況で部下の肉を食べて生き残った船長。彼は、食べる前、食べた後、裁判のときと一貫して「我慢している」。何を我慢しているか?弱音を吐くことを。食べた言い訳をすることを。食べれば生き残れる確率が上がるという状況で食べないという選択肢を採用すること、あるいは、止むに止まれぬ事情で食べたのであって、私は本当は食べたくなかったのだ、と心情倫理をもらすこと、ひっくるめて言い換えると、私は人間的だ、と主張することは簡単だ。そんな簡単な選択肢があるにもかかわらず、彼はなぜ我慢したのだろうか?それは、仮に食べずに精神的に救われたとしても生き残ることはできないし、仮に裁判を受け入れたとしても、食べられた人間=死者は決して許してなどくれないからだ。必要があれば、人間性、道徳、救済を括弧に入れること、そして、自分がしたことの結果に耐え、我慢し「生きる」こと。武田泰淳に教えられることは多い。

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

経験から推して、暴力がこの世からなくなる可能性はないと言っていいだろう。法が保証する権利は、一種の暴力であるし、自己の内から沸々と湧き起ってくる怒りや攻撃的情動の存在を否定することはできないからだ。だが、暴力がこの世からなくならないという結論は、戦争を排除できないことを意味しない。(戦争勃発の可能性は常に内包し続けるだろうが)フロイトは本書で以下のように述べる。
「それは、わたしたちがなぜこれほど反戦活動に熱中するのか、わたしもあなたもほ かの人々も、人生のその他の多くの苦痛に満ちた苦難の一つとして、戦争をうけい れようとしないのはなぜかということです。戦争というものは、むしろ自然なもの で、生物学的に十分な根拠があり、実際問題としてほとんど避けがたいものと思わ れるからです。(略)わたしたちが戦争に強く反対する主な理由は、ともかく反対 せざるをえないからだと思います。わたしたちは平和主義者ですが、それはわたし たちが生理的に戦争が嫌だと感じるからです。それだからこそ、戦争に反対し、さ まざまな反戦論を提示しようとするのです。」(p.33-35)
このフロイトの発言は一考に値する。なぜなら、我々が戦争に 反対する理由を、倫理観や道徳等、「意識」の領域、つまり理屈に求めるのでなく、当の本人には知られず、であるにもかかわらず、その本人の行為に影響を及ぼす生理=「無意識」の働きに求めているからだ。無意識の領域は、まさに意識できない領域であるがゆえに、執拗である。その無意識が戦争を拒否していると仮定するならば、戦争を排除する可能性は残されていると言えるだろう。この書を読んであなたは何を考えますか?

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」(p.10)とハートフィールドは言った。僕は僕のものさしで、距離を確認できるようになるまでに8年間かかっている。彼女が自殺してから僕がレーゾン・デートウルを取り戻すまでにかかった時間だ。 完璧な文章など存在しないが、完璧な絶望もまた存在しない。ものさしを持たないあなたへ。

身心快楽 (講談社文芸文庫)

身心快楽 (講談社文芸文庫)

武田泰淳は次のように言う。
「滅亡は私たちだけの運命ではない。生存するすべてのものにある。世界の国々はかつて滅亡した。世界の人種もかつて滅亡した。これら、多くの国々を滅亡させた国々、多くの人種を滅亡させた人種も、やがては滅亡するであろう。滅亡は決して詠嘆すべき個人的悲惨事ではない。もっと、物理的な、もっと世界の空間法則にしたがった正確な事実である。」(p.89)
「私はこのような身のほど知らぬ、危険な考えを弄して、わずかに自分のなぐさめとしていた。それは相撲に負け、カルタに負け、数学で負けた小学生が、ひとり雨天体操場の隅にたたずんで、不健康な目を血走らせ、元気にあそびたわむれる同級生たちの発散する臭気をかぎながら「チェッ、みんな犬みたいな匂いをさせてやがるくせに」と、自分の発見した子どもらしからぬ真理を、つぶやくにも似ていたにちがいない。……滅亡を考えるとは、おそらくは、この種のみじめな舌打ちにすぎぬのであろう。」(p.90-91)
倫理が、舌打ち、言い換えればルサンチマンに過ぎないことを自覚していたところに武田泰淳の非凡さがある。滅亡について思考すること、倫理的であることは、弱者の戯言に過ぎない。だが、たかが舌打ち、されど舌打ちだ。誰も舌打ちをしない世界を想像してみよう、それこそ地獄ではないか。武田泰淳の口から漏れ出る舌打ちは一考を要する。

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

2年ほど前に『職業としての政治』というヴェーバーの講演録を読み、最近また読み返した。考えさせられる講演だったのでつらつらと書評を記す。「しょうがない」は「仕様がない」と書く。こうすればこうなる、といった仕様書なんて本来ないんです。いや、本当に。私たちは意図せぬ結果を常に招く、だから、どんな結果になろうと、それが当初の意図、「心情倫理」に反していたとしても、その結果に対して責任を取らねばならない。(取る「べき」ではないし、まして取った方が良いではないことに注意) これがヴェーバーが言う「責任倫理」であり、政治家はこれに忠実たるべきだ、と彼は言う。この姿勢は職業政治家に限らず、我々のあるべき姿として読むことも可能だろう。(というより私はそのように読んだ。) 我々は自分の意志で母親のお腹に宿ったわけではない。気づいたら「私」として、「人間」としてそこに在った。何の違和感もなしに。これは例外的な事態ではない。この世には気づいたら始まっていることしかなく、逆に言えば、「気づく」ということが全ての始まりなのかもしれない。だが、あくまで始まりに過ぎない。この地点では、まだ「単なる物理現象」の域を出ない。なぜなら、ここで言う「気づく」とは「認知」に過ぎないからだ。ではどうすべきか、どうしたら能動性(=自分の意志)を確保できるだろうか?ここに命懸けの飛躍がある。ここがロードス島だ。ここで跳べ!(言ってみたかった。)ヴェーバーならこう答えるだろう。すなわち、「現在置かれた状況を認識した上で、まるごと自己の問題として引き受けること、つまり責任を負うことである」と。さて、「責任と自由意志が不可分である」ことは、ずっと昔から言われてきたことであり、新しさはない。だが、それを敢えてヴェーバーが言わねばならなかったということ、岩波文庫に収録され古典として認められているということ、その意味を我々は考える必要があるだろう。