Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

距離について

真摯に本を読むということ、あるいは真摯に話を聞くということは、取りも直さず、相手と自分との距離(差異)を確かめる、ということであって、決して相手の言い分を理解することではない。

さて、私は西洋哲学において重要な著作を歴史順に読む会を主催しており、ソフォクレスプラトンアリストテレスキケロアウグスティヌス→トマス・アキィナス→ダンテまできた。それ以降、つまり近代の哲学者の著作となると、主要どころは翻訳本を読むか、もしくは解説書を読むかして、概略をつかんでいるため、例えば、ホワイトヘッドが『西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である。』といったその意味を理解できるまでにはなった。で、今回書こうとしていることは、わざわざお金と時間を費やして読み、それでどうだったか、ということである。

まず良かったこととしては、一生、読むに値する、つまり、未だ消化しきれていないが、消化せねばならぬ哲学者を見定めることができたことが挙げられるだろう。例えば、カント、例えば、マルクス、例えば、ヴェーバー。彼らは彼ら固有の問題、問いを抱え、それと生涯格闘した。カントにおいては、認識の基礎づけ、マルクスにおいては、宗教ならびに宗教と同じ役割を果たしている諸々の現象、ヴェーバーにおいては、キリスト教世界の特異性の把握とその相対化。彼らは、総じて彼らが属している「キリスト教世界観」との距離が問題であったのであり、彼らはその外部で思考していた。

我々は、日本(=「キリスト教世界観」の外部)で、彼らの著作を読み、それについて思考しているという点では彼らと同じである。そういう意味では、日本は西洋哲学を研究する環境として絶好の場所ではある。だが、(ここからが反省点なのだが)結局のところ、それは彼らにとって、問題なのであって、私にとっては問題ではない、であるにもかかわらず、彼らの著作を読むことで、それが我々の問題である、と誤認しているだけかもしれない、という疑惑が拭えないことにある。つまり、私は真に相手すべき「敵」との距離を掴むも何も、「敵」を見定めきれてすらいないのである。思想の歴史とは、すなわち膨大な誤解の歴史であるが、空を切る誤解と美しき誤解は区別すべきだし、前者はたとえ国会図書館が貯蔵してくれたとしても、我々の頭脳に残ることは決してないだろう。