Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

大学について、認識について

国立大学は国家に忠実たらんとすべきである、という論理が仮に正当性を有するのであれば、具体的にはマルキストが大学の教員になれないのであれば、(別に私はマルキストではないが)大学はもはや「神学校」と呼ばれるべきだろう。

事実、あるいは自然は無限に多様であるがゆえに、それらはあらゆる角度から分析されるべきであり、各自どのような観点から分析したかを明らかにすべきである。つまり、この見方こそが唯一の見方であり、これこそ客観的な分析だ、などとほざくべきではない。

ゆえに、自分と分析視覚が異なるから、つまり党派が異なるからという理由で、その意見を抹殺すべきではない。自己の考えなど、他者の考えから照射しないかぎり、常に盲目である。根本的な懐疑は認識の父である。

私は大学2年時「マルクスを読んでいない人間は人間じゃない」と言われ、岩波文庫に入っているものは全て読んだが、この言葉の意味は以上の観点から理解すべきなのかもしれない。すなわち、『資本論』の価値形態論の議論は、我々が普段、遠近法的倒錯に陥った色眼鏡をつけて物を見ていることを暴露する。我々はマルクス的色眼鏡を通して、私を見ることで、私について少しだけ理解を深めることができる。

さて、我々は「客観的な世界」=物自体には辿り着けず、かつ、価値の優劣を評定する絶対的な基準を有していない、という一点において、倫理的な紐帯を結べるのではないか、いや結ぶべきなのではないか。