Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

共和主義と科学について

ジニ係数という分析概念をご存知だろうか。これは、所得分配の不平等さを測定する指標だ。係数の範囲は〇〜一であり、〇に近いほど格差が少ない。教科書等では一般に〇に近い国が評価される。この分析概念はぶっちゃけるとキモチワルイ。なぜか。ジニ係数を計測するために、一人一人の収入をケースとして「平等」に扱っている、つまり、測定する以前に既に平等であるからだ。

社会学や経済学の根底にはこうした「平等」思想が流れている。ニーチェはそこにキリスト教徒のルサンチマンを嗅ぎとり徹底的な批判を加えた。ニーチェまで行かなくとも、なぜ平等を志向せねばならないのか、と考えたことのある文系学徒は少なくないのではないだろうか。私はそのうちの一人である。今回は学問に根を下ろす、平等思想と神の不在について論じてみる。

 ところでその時点(人間が造物主の手によって作られた時点)で人間は一体何者であったのか。人間だったのである。人間であることがその高貴なそして唯一の肩書きだったのでこれ以上に高貴な肩書きは人間に与えることができはしない。

これはフランス革命を擁護したトマス・ペイン『人間の権利』の一節である。ここには人間は人間であるがゆえに平等である、という思想が高らかに謳いあげられている。モダンあるいはポストモダンに生きる私たちは、この思想を当然のものとして受け取るかもしれない。しかし、当時、この思想は非常にラディカルであった。

それ以前の世界は、超越的な神のもとに、現在「人間」と呼ばれるところの何かがそれぞれ異質なものとして存在した。しかし、トマス・ペインを代表とする共和主義者は、超越的な神のもとに、斉一的に把握しうる「人間」を定位した。把握可能な「人間」の誕生は、必然的に、彼等「人間」が形成する把握可能な「社会」の誕生を伴う。そしてその把握可能な「社会」においては「超越性」=「神」は失われる。ここでいうラディカルとはそういうことだ。

 社会学の創始者の一人、デュルケムが『社会学的方法の規準』にて、社会を個人に外在する「物」として客観的に扱うべきである、と宣言したことは以上の文脈で理解する必要がある。つまり、デュルケムにおいては、社会は「物」として存在するのであり、そこにおいて超越的な神は存在しない。そして、「社会」を対象とした独自の科学を打ち立てることは、カトリシズムの世界観に取って代わりうる共和制の世界観を打ち立てることを意味する。社会学と共和主義、平等主義とは切っても切れない関係にある。(なお、『宗教生活の原初形態』でデュルケムは、宗教とは社会の象徴である、という認識も提示する。)

以前論じたように、超越者なしでは私たちは「私は異常者ではない」ということを確定することができない。そして、その代打、擬似的な超越性として登場するのが、民主主義、あるいは科学、社会である。つまりみんなが「あなたは異常者ではない」と言っているから、「私は異常者ではない」ということにとりあえずしておきましょう、と。社会科学であれ、自然科学であれ、近代に成立した学問には、その学知を正しいと確定する神がいない。よって、普遍的に成立する法則を想定することができない。それではあんまりなので学問共同体の構成員の多くが、「この仮説は正しい」と認めた場合、その仮説は「法則」という名を冠することになっている。あくまで暫定的に。

では、超越性と科学は両立不可能なのか。長くなりすぎたので続きは次回。