Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

旧劇場版と新劇場版で本質的に何が異なるのか。

庵野秀明さんはなぜ新世紀エヴァンゲリオン新劇場版を製作せねばならなかったか。私は序、破、Qを観るたび、このひっかかりを覚えた。だが、最近その問に一定の答えを見出すことができたため、幾ばくかの考察を記す。

旧劇場版と新劇場版の明白な差異は、 旧劇場版では、人類補完計画が遂行されるまでが描かれている(補完は失敗に終わるのだが)のに対し、旧劇場版は、「破」のラストにてシンジがレイを助けるためにとった行動が結果的にサードインパクトを引き起こすこととなり、それ以降の「Q」「:||」はサードインパクト後の世界が描かれている点だ。ここで思い出して欲しいのは、旧劇場版においてサードインパクトとは全的滅亡として想定されており、かつ人類補完計画とは他者のいない世界、「私は〇〇である」と主張する必要のない世界であると想定されていた、ということだ。そうであるとするなら、人類補完計画後を描くことは不可能なはずだ。なぜならそこでは物語など存在するはずがなく、仮に存在したとしても、私たちが、気持ちを重ね合わせるキャラクターなどいるはずがないのだから。

だが、新劇場版ではサードインパクト後の世界が描かれている。なぜか。それは、サードインパクト後の世界に、ミサトさんも、アスカも、碇ゲンドウも存在したからだ。シンジ君にとっての「他者」は、世界が崩壊した後も存在したのである。このことが意味することについて、もう少し考察する必要があるだろう。問としてはこうだ。旧劇場版と新劇場版とで世界観にどのような違いがあるか。旧劇場版の世界観は、「(シンジ君の)自意識の消滅=世界の全的滅亡」という独我論的なものだ。一方、新劇場版ではその前提が崩れ、滅亡すらも相対化されているのである。前者を、三島由紀夫的な世界観とするならば、後者は武田泰淳的な世界観と言いうるであろう。

 それでは、最初の問に戻ろう。庵野秀明さんはなぜ新世紀エヴァンゲリオン新劇場版を製作せねばならなかったか。その問に答えるためには、Qのキーワード「希望は残っているよどんな時にもね」を思い出す必要がある。このキーワードを見たとき、東北地方太平洋沖地震の被災者宛てのメッセージではないか、と思った人も多いのではないか。大震災で生き残った人の中には、「なぜ彼、彼女が死んでしまったにもかかわらず、私は生きているのか。」と考えた人もいたであろう。この問は考えて答えが出る類の問ではない。この問から抜け出すためには、生きている他者からの応答、「希望は残っているよどんな時にもね」が必要ではないだろうか。大事な他者の死は端的に世界の崩壊である。だが、全的滅亡ではない。なぜなら「私」は生きており、私の問いかけに答えてくれる「他者」(アスカであり、カオル君)がいてくれるのだから。このキーワードは製作者から被災者へのメッセージであり、新劇場版Qを製作した意図であろう。

「:||」の予告では、エヴァに似た何かが戦闘を繰り広げていたように覚えている。そこには他者との完全なる同一化という意味での救いなど一切ない。しかし、希望と絶望、愛と憎しみに塗れた世界がある。さて「:||」ではどのようなストーリーが展開されるのであろうか。今から楽しみである。