Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

先祖について

こういうのをカルチャーショックというのだろうか。

仲の良いとある友人の家には、なんと仏壇がない。そして、彼が住む新興住宅街のどの家にも仏壇がない。さらに驚くべきことに、この事実は決して驚くべきことでなく「一般的な」ことらしい。

私は今まで、大家族が崩壊して核家族化が進んでいることを単に、資本主義がその外部である共同体=家族をのみこんだ結果としてのみ理解し、それは、種の再生産にとって憂うべき事態であると理解していた。なんというか、家族の規模が縮小化することに、それ以上の危機感を抱いていなかった。そして、おそらくそれは、我が家が、核家族でありながらも、家に仏壇があり、お盆にはお墓参りを欠かさず行ってきたからだろう。

だが、この変化はそれ以上の意味を有しているようだ。三世代以上一緒に住んでいることと、二世代しか一緒に住んでいないことの間には、おそらく本質的な差異がある。それはすなわち、後者は前者と異なり、「先祖」との関係をほとんど持たないということであり、家「族」としての「族」一貫性をほとんど有していないということである。言い換えれば、我々は、個体を識別するという機能を除いて、もう「名字」を持つ必要性を持ち合わせていないのである。

ここで一つ私の地元のとある風習の話をする。 私はお盆に実家に帰るたびに地元の夏祭りに参加している。祭りが行われているあいだのみ、会場の隣にある歴史民俗資料館が無料開放されるため、毎年私はそこで二時間ほど展示物を閲覧している。その展示物の中に「上げ仏壇」というものがある。私の故郷は、昔から洪水が多く、たとえば、一六〇〇年から一九〇〇年の三百年のあいだに、五十回つまり、六年に一度洪水に見舞われている。そのため、お金持ちの家は、一階が浸水しても、仏壇だけは浸水しないように、ロープを引っ張れば、一階から二階に仏壇が上がるような仕掛けがあった。これが「上げ仏壇」と呼ばれるものだ。当時の人は、洪水が発生したら逃げることより仏壇を避難させること、それを重視したのだ。

このことは、現代に生きる我々にとって、おそらく驚くべき事実だろう。我々はマイホームを手に入れた代償として、先祖を敬う心を忘れてしまった。私がこんなことを書いたところで、共同体=家族の分解を止めることはできないだろう。なぜなら、資本主義は、その外部をのみこむことでしか、存続できず、そして、資本主義は終わりを無限に先延ばしにすることで、維持されるシステムだからだ。だから、忘れつつある現代人を断罪しようという意志を私は持たない。だが、我々はそういったものを忘れつつあるということだけは口を酸っぱくして言い続けたいし、言い続けるべきなんだと思う。なぜなら、先祖と将来世代を想定せずして、倫理など本質的にあり得ないからだ。